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保科 龍朗 (ほしな たつろう)
東京報道局 文化くらし報道部 1982年入社
寿命を削る思いで一つひとつの言葉にこだわる。
世の中でいま何が起きているのか。その表層の事実を素早く伝えるとともに、深層に隠された問題の所在を突き止めるのが一般紙面の記者の仕事だとするならば、僕が伝えようとしているのはヒューマン・ストーリー、つまり「物語」に昇華された人間の存在そのものだと思います。「be」は毎週土曜日に別刷りで発行されています。ビジネスとエンターテインメントの2部構成のうち、僕が主に担当しているのは、エンターテインメント系の「うたの旅人」「サザエさんをさがして」「再読ガイド」などの連載物で、それぞれのコーナーに沿ったテーマを自ら企画し、取材、執筆をしています。先日は「うたの旅人」で、かつてザ・フォーク・クルセダーズが歌った『イムジン河』を取り上げ、5日間にわたる韓国取材で、歌に登場するイムジン河の周辺やソウルの街をくまなく歩き回りました。取材を通して見えてくるのは、取り上げた「歌」に込められた作者とその時代を生きてきた人間の物語。その物語を、読者の心の奥底にまで染みわたらせ、感動を与える文章によって伝えていくことが僕の役割だと思っています。これまで多くの先輩記者に「神は細部に宿る」と教えられてきましたが、まさしくその通り。だからこそ地道に取材を積み重ね、書く時は言葉の一つひとつにまで徹底的にこだわります。大仰な言い方かも知れませんが、それこそ寿命を削るような思いで毎回書いては直し、書いては直しの繰り返し。こうしてすべてにおいて納得のいく原稿に仕上げられ、読者の共感を得られたときの快感ほど生きがいになるものはありません。
自分という人間そのものが問われる仕事。
僕はもともと文筆家志向が強かったのですが、入社して8年ほどは警察担当を中心に一般紙面の記者をしていました。そんな僕にとってターニングポイントとなったのは、1990年代の初めに、当時の日曜版のフロントページに連載されていた「シネマCINEMAキネマ」を担当した時のこと。同じ記事を書く仕事とはいえ、それまでは何よりも事実を客観的に伝えることが求められていたのに対し、外国映画を毎週1本、テーマとして取り上げ、その作品にまつわる人びとの物語を紙面2ページ分の長行の原稿で描く「シネマCINEMAキネマ」では、どんな視点でどう伝えていくかに自分自身の個性や構成力が初めて強烈に求められるようになったのです。はじめは戸惑い、まだまだ力量不足だと痛感することも多々、ありました。しかし、取材で世界中を飛び回りながら、自分自身にしか思いつけない切り口を探し求め、原稿と格闘し続けた2年間は僕にとって本当に大きな財産となっています。世の中では活字離れが進んでいますが、活字ほど人の心の奥深くにまで届く力を持つメディアはないと信じています。特に現在担当しているbeの読者は自分と同じくらいの年齢層が多く、毎週楽しみにしてくれている方がたくさんいます。これからもそんな読者の方たちを感動させられる珠玉の記事を書き続けたいですね。

入社動機 父親はライバル紙の記者だったが、中学生の頃からの夢は小説家になること。新聞記者になることを意識し始めたのはようやく大学3年の頃で、米紙ワシントンポストのボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインがウォーターゲート事件報道の真相を書いた「大統領の陰謀」や、同じくワシントンポストを中心に活躍したコラムニストのアート・バックウォルドの傑作選、そして朝日新聞で名文家とうたわれていた故・深代惇郎さんの「天声人語」を読んで感銘を受けてから。コラムニストになりたかった。父親とは違う新聞社を選んだのは、当時は一般紙各社の試験日が同じで重複受験できなかったことと、深代さんの「天声人語」の影響による。
キャリア 高松(3年)、奈良(2年)支局を経て大阪本社社会部(3年)へ。ここでは大阪府警捜査1課を担当し、発生後、まだ3年しか経っていなかったグリコ森永事件などを追う。その後、AERAへ。途中、東京社会部への異動などもはさんでAERAでは通算約7年を過ごす。そして、日曜版(3年)、be(2年)、週刊朝日(2年)を経て、再びbeへ。現在、beへ戻ってきて4年目。本人曰く「幸か不幸かデスクをやったことがない」というほど記者一筋でキャリアを積み重ねてきた。